「長く使える時計」「一生物」という選び方について
腕時計について考えたことをまとめています。記憶のメモ書きになるので、ですます調ではないことを予めご了承ください。 また、正しいことを主張する意図はありません。
将来を見越して買うのは難しい
将来を見越して買う「数年後の自分が着けていられる時計かどうか」を考えて買うのもいい。 しかし「若い今の自分にしか着けられない時計」というのも考えて良いのではないだろうか。
本来それは気にするべきことではないのであろうが、ファッションなどでは特に気を使うかろう。
もちろん高い買い物で、短い時間しか使えないことには後悔が残るかもしれない。
ただ前提として「今の自分が身に着けたい」と思わない限りは、買ったあとに後悔が残りやすいはず。 使わずにいて、未来で「買っておいてよかった」と思うことはあるかもしれないが、その保証はない。
言葉は悪いが「要らないもの」を買った後悔は、すぐそこにある。 それはほぼ確定された事象で、しかし回避可能だ。
途中で着けられなくなったとして、一周回って歳をとった自分が着けてたら格好良いとかはないか? 考えてみてもいいかもしれない。
アクセサリーの要素があるものだから、流行にはきっと周期がある。
「一生物」「孫の代まで」は怪しいと思う
機械式時計には「一生もの」あるいは「孫の代まで」という思想がある。 これは空手の「一撃必殺」に近しい信仰の領域にある気がしている。
そして、いくばくかの疑問が残る。
もちろん長く使えるものが欲しいし、そうなったら素敵だと思う。 実際のところ、私は小学生から使っている道具を持っているし、10年以上使っているものもいくつかある。 私も含め、長く使う人は確かにいるだろう。
ただ、新しい物は必ず生まれてくる。「今」良いと思うものがあるように、 新しく出てくるものを、その時その時代に、良いと思わないはずがない。
もちろん使い続けるスタイルはかっこいいと思う。自分が年老いて死ぬときに、ボロボロになってその腕に着いてる時計はかっこいいかどうか。 付けていられるかどうか。一生物としての選び方は、そういうことだと思う。
あるいは、身の回りにいる、よく似たスタイルの、自分より年上の人に、想像で身に着けさせてみる。 例えば自分の父親がその時計をつけていたらどうだろうか、上司は?
※ここでいうスタイルは、スタンスに近しい意。
自分と子供は別の人間
「子供に受け継がれる時計」本当にそうだろうか、もちろん素敵な話だが、時代が変わればスタイルは変わる、技術も変わる。
そしてなにより人が変わる。子供と自分は違う人間だ、子に渡すためは考えなくても良くないか? 子供がどうするか、子供が判断すればいいのだ。
できることは判断の余地を残すことだけだ。判断の余地が残る、それだけで十分素敵だ。
同じく時計を好きな、ビンテージを好きな人に渡るでも良い。時計を選ぶ理由に子供と孫を持ち出すのは違うのではないか?
「今」その時計を使う自分が、欲しいかどうかを素直に考えた方がいい。
ただ繰り返しになるが、もちろん引き継げれば素敵である。
生きた時代の物を好きになる
若いときに聴きなれた曲を聴き続けるように、自分が若いときに良いと思ったデザインを、良いと思い続けることは十分にあり得る。
それはその時代を生きた人間のためである。その時代を生きた人間が、その時代に生まれたデザインを良いと思うのは当たり前のことだ。 その時代の、その背景、その時を生きた人の感性に合わせた物が生まれてくるのだから。
他方で、人の趣味の内、大きく変わらないものは確かにあると思う。 私の身の回りにいる人の中で、幼い頃からの趣味や興味を大事にしている人もいくらかいる。
特に尖ったデザインを選ぶとき、自分がどういう人間かはよく考えた方がいい。 そのデザインが尖っているかどうかは、多分選んだ本人が一番わかっているはずである。
若いときは気を付けるべき
経験的に、多くの場合に、趣味や趣向は変わる。自分のスタイルが確立されていない、若いうちは気をつけた方がいい。
自分の趣味や趣向が変わってしまったタイミングはないか?子供のころから好きな色が変わったことはないか?
枯れたデザインは長く使える
古くから残っているルックス、デザインは、今後も残る可能性があるし、長く使える可能性がある。 それは古いから良いとかではなくて、デザインやビジュアルとしての完成度が高いためで、変更の余地が少ないからである。 時代に合わせて多少変更されるが、大きく変わることはない。
新しさや奇抜さ、コンセプトを全面に押し出したデザインは、その時代の感性を狙ったものである可能性があるから、 長く使いたい、という考えがあるなら、慎重になったほうがいい。
もちろん「今その時計を身に着けたい」という感情はあり得る。 そのコンセプトや奇抜さが自分の思想とマッチして、世間の感覚とは外れるかもしれないが、使い続ける、も大いにあり得る。
※何より、私はこのタイプに近しい。あくまで一般的な話である。
またファッションのように一巡してくるもあり得る。ただ一巡するデザインは、 おそらく将来的にも長く巡っていく、比較的完成度の高いデザインということになるだろう。
新しいコンセプトを長く存在させ続け、それをデザインやブランドとして成立させるのはそれくらい難しい。
枯れたデザインの例
何を言っているのか伝わりにくい自覚があるので、例を挙げる。
黄金比、アールデコ、アールヌーボー、バウハウスetc、古典的な音楽、建築、手法の類が現在もなお残っているのはなぜか。 それがスタイルとして完成されて成立したからに他ならない。
もしアンティーク時計をかっこいいと思えるなら、「枯れたデザインが長く使える」証の一つなのかもしれない。 あるいは、今現在でも「クラシック」とされる時計を好きになる人がいて、製造されるのは、その証たり得るだろう。
技術や機能革新がデザインを変える
歴史的に、新しい技術や機能が登場するとき、物のデザインは大きく変わる。 その技術、機能を取り込むにあたって最良な方向へ徐々に最適化されるためである。
そういう意味では、出たばかりの技術、機能については、変化の余地が残されているため、 それが取り込まれた物が、長く使えるデザインであるかは怪しい。
ただ、新しさを応援したくなる気持ちはよくわかる。挑戦が大変なことは多くの人間が知っている。
あるいは、単に、見たことない物事には興味を惹かれるし、常に興味を持てる自分でいたい。
レザーベルトがきっと長く使える
観測的に、経験的に、レザーベルトの方が、レザーベルトに付け替えられるものの方が、長く使えるように見えている。
執筆時現在において、メタルのブレスレットを直してるブランドやアンティーク時計はそう多くないように見える。 時計本体やムーブメントを修理することはあれど、だ。
これは私が無知なだけかもしれないけれど。
ただブレスレットだけ真新しい印象になるのも違和感があるだろうから、 駒を抜いて緩んでしまった分を調整するとか、雰囲気を合わせるなら、エージングするとか、そういった作業が必要そうだ。 あるいは本体の方を綺麗に研磨するかだ。
雲上か、永久修理を謳うブランドならまた違うのかもしれない。
※私の持っているフルーテッドジュビリーのデイトジャスト、その組み合わせが似合いすぎるので、 レザーに変えにくいのが弱点だと思う。きっとそういう時計がほかにもある。
だからと言って、メタルブレスが似合う時計を選ばない、という理由にはしたくないし、 検討してる人にも考えてほしくはないので、この思考は無駄かもしれない。 レザーも似合うな、だったらラッキーくらいに構えたい。