何者かになりたかった15年前の私へ

まえがき

この文章は過去の私に宛てた助言であり、未来の私に対する祈りでもある。

「何者かになりたい願望」というのは、昨今ではよく聞く話である。

私が思うにそれは「自分が唯一無二の存在として確立され、周囲から認められる」 あるいは「周囲を気にせず自尊心を維持できる」といった趣旨の願望だと思う。端的には「特別な存在でありたい」だ。

先んじて書いておくが私は「家庭を作り、その相手や子供から見て、唯一無二の存在になることもまた、何者かになったと言える」と思っている。 しかしまぁ仮にこの文章を読む人がいたとして、そんな綺麗ごとを期待するものではないだろう。

おそらく光輝かしく功績、スター性やカリスマ性といったそれらを以て「何者かになる」と評したいのだろう。

先の定義には収まらないから自覚はないが、私はきっと「何者かになった」と思う。 より正しくは能力に不相応な成果をあげさせてもらったなと思っていて、これで「何者かになった」と言わなかったら、 小さくとも応援してくれたであろう人たちに失礼だなと感じている。

だから本質的には「何者かにはなれなかった」のかもしれない。だから自覚は無い。

重要な点は「そこ」にない。もし15年前の私のように「何者かになりたい」と思った人がこれを読んでいるとして、 少しでも残せるものがあればいいと思ってこれを残している。

再現性のないことだから、真似をして上手くいくなんて欠片も思わないし、真似をできるとも思っていない。

ただ、もし同じような境遇で、同じような道を進もうとする私(同士)がいるのだとしたら、 少しだけ先んじた人間の、ほんの小さな小言のようなものを聞いてほしいというただのエゴだ。 路傍にいる知らない人間の小言に足を止めて耳を傾ける人は酔狂だろうから、私しか読まないかもしれない。

これを老害や運が良かった人間の「それ」ととらえる人もいるのかもしれないが、どうか許してほしい。 不快にさせるつもりはないのだ。もしこれまでの語りにその気を感じたのなら、どうかここで読むのを止めるべきと勧めておく。

何をしたか

私は人並みかそれ以上に怠惰で、勤勉ではない自覚がある。基礎学力や身体能力なども精々が人並だろう。 学校という小さなコミュニティの中で突出したことも無かったし、唯一突出したとすれば大学時代の後期だが、お世辞にも世間的な評価が高い、 あるいは学力が高い大学ではない(世間のそれはおき、評価するべき点はあると思うが割愛)。

性格がこれと言って素晴らしいわけでもない。先にあげた自分の不出来や日常的に起こす数多の失敗を隠す程度の卑怯さも併せ持っているし、 人付き合いも極めて狭いコミュニティにしかない。意思も弱く、時にポジショントークもしてしまっている。

積極的に外に出ることがないし、どちらかといって引きこもりと言っておよそ差し支えない。 ただかろうじて社会生活が出来ているだけだ(それも、その気になっているだけかもしれない)。

才能あふれることも客観視点にないだろう。こればかりは結果だけを見て「そんなことはない」という人の方が多いだろうが、 私を近くで観測し続けてくれた人たちからの評価もそう変わらないと信じている。

(私は才能というものがあると信じていて、しかしそれについて語り始めると話がまとまらないからこの場では割愛する)

それでいて「何者かになれたのかもしれない」と思える程度に生きられたのは、たぶんいくつかの要因がある。

環境に身を置く

1つは「環境に身を置けた」こと。幸いなことに、まだ同業界が盛んになっていないときに、今の仕事に就くことが出来た。 そうはいっても説明会では面会希望を出したとて会ってもらうことはできなかったし、 2回目の選考では希望する職種以外に進むしかなく、それならばと大学に残った。3回目の機会でようやくといった感じだった。

自分を変化させるのはかなり難しい。よほど強い意志やモチベーションがある人くらいだろうし、 そういう物がある人は、すでに十分な成長を自力で成し遂げている。適性や才能の類と言っていいだろう。

そうじゃなければ環境を変えるしかない。環境に身を置いて、その巨大な流れに身を任せて先へ進むしか、自力で到達できない場所へは行けなかったと思う。 ある種の海流のようなものに乗ったおかげで、自力で進むよりも遠くへ行けたのだ。

乗ったというか、流された。実態としては遭難と言っていい。

才能がある人は勉学や手を動かしては立派な船を作って乗るのかもしれないが、私は精々が小さな筏である。 漕げども漕げども力負けをしながら、生きるために時に帆をはり水を漕いで、そうして流れ着いた場所が良かっただけである。

別に幸運だった自慢をしたいわけではない。もしこのことに再現性があり得るとすれば、それは海流に乗る選択を取ったことである。 決断を下すだけの向こう見ずな、怖いもの知らずな若さがあった。もし守るものがあったり少しの勇気もなければ、今いる場所には辿り着かなかった。

とはいえ、飛び出したことを悔やむこともあると思う。1000人が飛び出して999人が遭難して死んでしまうこともあるだろう。 今でも「やってしまった」と後悔することはたくさんある。ただそのとき選択や決断を、諦めないことが大事だったように思うのだ。

「なぜやらないのか」の思考さえ諦めなければ、もしやらなかった後悔を迎えることがあっても、未来のための、次の決断のための礎になると信じたい。

選択することを放棄してはいけない。若さであっても怖いもの知らずでも何でもいい、私(あなた)の勇気ある決断を尊重したい。 これは成功のためのメソッドじゃない。ただ選択の後悔をしないための心構えである。そして冒頭の通り、この先の未来に、過去の選択を後悔しないことを期待する、ただの祈りでもある。

何かを捨てる

もう1つ。「代わりに多くの物を犠牲にした」。多くの人がアルバイトをし、友人たちと遊び、恋愛をし、旅に出て、 社会性や交友関係、人生観を身に着ける中で、私は1人部屋にこもっていた。タッチタイピングすらできないまま進学した私は、ただ自室に引きこもってずるずるとできない課題や研究に向かっていた。

特に強い意志があってそうしたわけではなく、学力に乏しく、集中力のない私は時間をかける他なかったのだ。 怠惰であって勤勉でなければ、代りに費やせるものは自尊心と時間である。

(受験だって試験を受けたわけではない、学力がない自覚があったから、模試すらろくに受けていない、自己推薦のAOだ。学校推薦などとんでもない)

就職してからもほとんどは変わらず。今では多くの人は結婚して大きな子供がいるのが当たり前のような年齢ではあるが、 友人関係ですら正常に築けている感覚はない。先日も父の死期が近づいていることを理解しながら、傍にいることもせず、終ぞ死に目にすら会えなかった。

誤解なきように書いておくが、周囲は働き方を変えるなどの手段を提案してくれていて、私がそれに乗らなかったのだ。 生活を変えながら乗り切れる気がしなかった。父を言い訳に使いたくなかったというのも理屈としては持っているが、本質としては私が耐えられなかったからだと思う。そういう選択をしたのだ。

結論は選択に帰結するのだが、それ以外に伝えたいのは「代わりに何を差し出す」のかだ。嫌だ・ダメだ・出来ないでは、自分の能力を超えていく人間にどうあったって並ぶことすらできない。 私は怠惰で勤勉ではなく集中力もないから、多くの人が思い浮かべる一般的な生活と、安定した未来と、若い時間の多くを差し出した。終ぞ父との死に際の時間をだ。

もし仮に、これを読んでいるかつての私が同じような閉塞感と飢餓感を覚えているとして、同じものを差し出す必要はないし、天地がひっくり返っても勧められるものではない。 ただ「何者かになりたい多くの人」は感じているはずで、それは自分のままでは成しえないってことだけだ。自分に向き合って選択をするしかない。

度々重ねて書くが、この先の未来に私が幸せである確信はない(なんなら悲観的である)。ただ過去の選択を後悔することがないよう祈るばかりなのである。 同じ人生を生きたとして、同じ選択をきっと自分はするだろうと、そう信じたいのである。

(「何者かになる人≒才能のある人」は、客観視点に「何者かになる」みたいなことを考えていないように見える。 それは今の立場から見える距離にいる人たちを観測する限りだ。私に才能があったとすれば、犠牲を払う決断ができる程度の無謀さに他ならないと思う。)

行動する

最後にもう1つ。伝えなければいけないことは「行動だけが変化を産む」ということだ。再三選択の重要性を説いておいてなんだが選択はその先にある「行動」のためにあるものだ。 気持ちだけで何かが生まれたら苦労はしない。「何かをやらない選択をするなら、その代わりに何をするのか」は同時に考えておいた方が良い。

思考で満足してしまいがちな、怠惰な私(たち)に欠けているのはそれだ。そんなところで疲れるんじゃない。

行動に移せ。形にしろ。思い描いたことを出力することのなんて難しいことか。適切に体は動かせているか?人は思うように動くか? 見落としがないほどお前の頭は完璧か?残念ながら、優れていない私はほとんどの場合にできない。

不思議なもので、出力すると必ず外からの影響を受ける。自分の小さな頭の形に納まっていた水の塊が、外に出した瞬間に風の影響を受け、 石が飛び込んできて、濁ったり波が立ったり、時に他の水と一緒になって大きくなったり、あるいはこぼれ落ちたり干上がったりする。

私のこれから

これからの話も少しだけ書いておこうと思う。正直な所、私がするべきことはしてしまったように考えている。

後進が出てこれる程度の資料は世に出したし、一定の成果を以て同業種の雇用をほんの僅かな期間とは言え、未来に向けて守ったと思っている。 己惚れと言ってくれるな。全体の0.01%にだって届いてない自覚はある。ただ漕ぎだすだけの価値がある海を構成する小さな小さな水滴の1つとして身を投げ出したと信じたいのだ。

ひとまず過去の選択を後悔に繋げないためには生きることである。後進が世にだす重しくも楽しい世界を生きてみたい。 まだ見ぬ新しいアイデアや人類の進化を見てみたい。そのためにも生きなければならない。

※この文は、何度か時間を空け、ほぼ1年が経とうとしている今もなお追記されているが、生きるための熱量が、今の私には足りていない。困ったことだ。何とか生きたい。