器のデザインについての思想

コロナの頃からか、器の類を集めるのが好きで、それなりに色んな作家さんの物を集め漁ったんですが、その過程で自分の思った点とかについてまとめていこうかなと思うたのです。

とりあえず言えることは、誰かに譲る形で手放してしまうのは、それらを管理するだけの豊かな場所と時間と心を持ち合わせていないからであって、 決して物自体は悪い物ではない、ということです。手に取った以上は好きな物ばかりなのです。

それと、もう1つ。器の類は究極的にそのイデア・目的・役割だけを見れば、それこそ100円均一の物や、量産の物が一番合理的になるのです。 そうじゃなくて、少しデザインの良い物、を使うのは、そこに合理性を超越した物としての愛着や美的感覚や感性があるからで、それらは決して否定されるものではないのです。

で、冒頭の写真に戻り、内外の両面に三島彫りの施されたこの茶碗、土がそのまま混ぜられたような小粒の意思が混じった表情と、白すぎない白色が自然の釉薬を感じさせる良い茶碗だったのです。

でも同時にそこに疑問が生じてしまいまして、凹凸によって箸の先端が削れがちであったり、米などが固まってしまったものが残っているのか、石や彫りなのか、感覚的に分からなくなってしまったのですよね。

前者は兎も角、浸かってすぐ洗いなさいや、そうすればほとんど気にならないかろう、というのも分かるんですけど、心理的な物なのです。生活スタイルにもとりあえず漬けておく、をやりがちですし。

すごくすごく良い絵が出ている益子なんです。女性作家らしい繊細な曲線と絵なんですが、口が狭くて底が深いのですごく洗いにくい。のと、やや口が厚いのが少々の飲みにくさを感じてしまったのです。

後はふくらみがあるから最後の方は結構傾けて飲む必要がありますし。

口が狭い、厚いおかげで保温性が高く、ホットワインとかには良いんですけど、そんなに頻繁に飲むほどでもないですし、温めて飲むもの、やっぱり渋が残りがちで洗い難さが気になるしというわけです。

形と色が素晴らしく、合理性を超えて何年も持つだけ持っていたのですが、維持管理しながらよりは使っていただけるところにお嫁に出したほうが良かろうということで、お嫁に行っていただきました。