天才には才能を認めて欲しいし周囲は努力を認めるべきだ

能力のある人間がその才能を否定する瞬間をチラホラと見かける。 具体的にどれだ誰だとあげることはしないが、誰でも1度は見かけた経験があるのではなかろうか。

「僕に才能は無く、努力によってこうなった」という趣旨のシーンである。 これは"何か目立った秀でた能力がない"自分には理解できないシーンなのだ。 (暗に別の箇所では能力があるはずだと信じているのだから笑わないでくれ)

天才はその才能を認めてくれ

能力が高い人間は明らかにその能力が周りから逸脱しているものであることに気が付くはずである。 別に"才能"がなくても多くの人が能力の適性(自分に向いている・いない)や、能力の大小の差は自覚したことがあるんじゃないだろうか。 例えば「ある分野 A では自分の能力は高いが、ある分野 B においてはアイツに叶わない」という感じである。

各個の能力が突出すれば突出するほど、適性や能力の大小に気が付きやすいハズだ。 能力が青天井に、しかし年齢や性別を関係なしに一律に評価される一般社会において"個"の能力が評価されるのなら、それはもう才能でしかないと私は思う。

余談:評価について

  • 評価基準が一律であると述べたが、必ずしも一律に取り扱われない現状があるのは理解している。
  • 評価されない天才が多く存在しているのも理解している。

こと芸術分野においては一部にだけ熱狂的に評価される場合があり、 過去の芸術家には死後に評価される人間が多くい"た"が、 それはアートの分野がそれだけ流動的な評価や価値観に晒されているからである。

そして当然のことながら、評価を受けやすい、という才能もある。例えそれが技術的に劣ろうが関係なく、 またその内容が倫理的に正しいかどうかや、その他一切の評価基準を差し置いてだ。

天才の努力を認めよう

才能であることを否定したい気持ちも分かる。自分が「あなたは才能があるから成功したのだ」と言われたら良い気がしないのは間違いない。 努力とは自らが積み重ねるモノであって、それ以外から与えられるものでは決してないハズだ。

「才能」という言葉は自分の積み上げた努力については蔑ろにされがちな言葉だ。 才能は運に左右される要因であるから、その才能を開花させるために労した時間と努力には目を向けられないように思えてしまう。

実際にはそうではないことを我々は知っている。 自分が「あなたは才能があるから成功したのだ」と言われたら良い気がしないのは間違いない。の通りだ。 少なからずその能力をどうにかして伸ばそうとした自覚があるので、良い気がしないのだ。 だから天才を評価するときは、その努力もまた評価してあげたい。そうして欲しい。

終わりに

少なくともこれを書いている時点での私は、第三者の評価は殆どなく、また未だ何にも成功していない。 多くの事に非凡な私が才能を切望するからこの記事を書いたのであって、将来何か変化があることを期待しつつこの記事を閉じる。 そして実は人生における最強のパラメータは "運" であると思っている、これはまた別の記事で。