いつか歩くのだって許可が必要になる世界になる。

今朝の NHK ニュースでの話です。 時計などの商品に対し「多くの製品が工具なしでボタン電池を取り出すことが可能になっています」 という趣旨の報道がされていました。この文面だけ見ると良いニュースに見えますね、 でもこれ明らかに悪いニュースとして取り上げられていました。幼児が誤飲する可能性があるというのです。

不自由の獲得は始まっている

これで工具をなしに電池が交換できてはいけない、なんて方向に向かったら馬鹿馬鹿しいと思いませんか? でも似たような事例では既に馬鹿馬鹿しくなっています。

明らかに 70 を過ぎたおじいちゃんも、酒やタバコを買うためには画面をタッチしないといけません。 傍から見たらマヌケです。「私は人の顔を見て年齢を判断できない馬鹿だ」と言っているのと何も変わりがありません。

蒟蒻ゼリー問題をご存知でしょうか。 弾力のある蒟蒻ゼリーを喉に詰まらせて死亡した、と訴訟が起きて製品販売停止まで至った問題です。 しかし比べて餅や米がどれだけの人を死に至らしめてきたのでしょうかね。

お客様を神様にしたままで良いのか

何故こんなことになったのか、"客を神とする文化" が時代に適応しなくなったからだと私は思います。 今の時代じゃ問題が起これば何かにつけて店側を叩き、店は弁解の間もなく多くの悪意に晒される。実態がどうであれです。

もぐら叩きが如く、出れば叩く、反対派 (アンチ) の声は何時だって大きい。 だって不満のない人は声を上げないもの。

僕らは手じゃなく足をとりながら生きている

まぁ販売側もうまく立ち回っているとは思います。 "パッケージに書いてあれば読まなかった消費者が悪い" に持っていけますからね。 本人にボタンを押させていれば、"偽った本人が悪い" に持っていけますし。 責任の追及を上手く回避する方法を考えています。

ただ、いつまでこんなことを繰り返せば良いのでしょう。 その内に包丁だって「この製品は人体を切る恐れがあります」なんて書かされますよ? あるいは歩くのにだって免許書とその更新が必要になるでしょう。外は危険がいっぱいです。

もちろん実際の利用者が怪我をしないようにする、より良い改善を提案することは重要です。 しかし利用する側がその製品がどういうものであるかを理解しておくことも必要でしょう。 自己責任の範囲と、製品側の責任の範囲とを上手く捌けるような仕組みや、そういう心構えがなければ、 私たちは延々に自分の首を絞め続けるだけなのでしょうね。