高齢者はなぜ "ウルサイ" のかを知って少しでも寛容になる

高齢者・お年寄りのことを "ウルサイ" と思ったことはありませんか。別に身内の話でも近所に住んでいる人のことでも構いません。 ここでいう ウルサイ(煩い・五月蠅い)とは、"騒音" の意味だけではなく、煩わしい、という意味でもあります。 私も思うことがあるし、これはそう感じて然るべきの面もあると考えています。

身体的・物理的なウルサイ

年を重ねるにつれて物理的に音が聞き取りにくくなります。抗うことが難しい人体の限界です。 日常的に聴きなれる音が小さくなれば、自分が発する音の大きさには鈍くなります。 結果として、その人はうるさくなるハズです。

これを強く感じられる場面は両親と共有するテレビの音量やカーナビの音量などでしょう。 私と両親は 40 以上も年が離れていますが、かなり聴きとれる音量に開きがあります。 他には例えば扉の開け閉めなどもあると思います。

精神面の変化によるウルサイ

高齢者の羞恥心の減衰によって、それをウルサイと感じることもあるはずです。 例えば咳やくしゃみなどの生理的なものはこれに含まれます。 生活音などの五月蠅さは、聴力の衰えに加えてこのことが原因になっていると思います。

逆に、幼い子供の場合にも似たようなことが言えるでしょう。 社会の暗黙的なルールを理解していないので、例えば電車の中で大騒ぎするなどの行動が起きるのです。

10 代の頃に気にしていたことが 20 代では気にしなくなり、 30 代になったら 20 代で気にしていたことを気にしなる、そんな経験ありませんか?

文化のギャップによるウルサイ

生きていた文化が異なるので、ギャップが生じて (わずら) わしいと感じることがあるでしょう。 "口うるさい"、"説教臭い" などです。自分の世代では当たり前であったことが、それ以外の世代にも通じるとは限りません。 しかしながら、それを相手に求めてしまうのです。 自分の中では常識的なことですから、無意識の内に相手に求めることも多いのかもしれません。

これは若者から高齢者に向けてもいえることでしょう。高齢者から若者に向けては「近ごろの若者は~」が分かり易い例です。 逆に若者から高齢者に向けがちなものは「何故こんなこともできないのか」でしょうか。

遠い関係にある音ほどウルサイ

高齢者と若者の間にだけ生じるものではありませんが、 自分とは関係のない音ほど、あなたはウルサイと感じるハズです。 例えば電車内での会話や通話もそうでしょう。 一方で、自分が視聴している映画や音楽の音はそれほど気にならないでしょうし、 自分の子供が五月蠅くても、家族はそれほど気にならないでしょう。

自分の両親や祖父母の生活音にしたって、自身が聴きなれているためにある程度許容はできるはずですが、 これが第三者の位置にいる人が発する音であれば、きっとウルサイと感じます。

少しでも寛容であるためには

他にも若者と高齢者との活動時間の"ギャップ"によるウルサイの発生などがあります。 もっと大きく見れば、男女間の違いでもウルサイを感じたことがあるはずです。 タイトルに"高齢者"としておいて、何なんですが、ギャップによる煩わしさの発生については、 高齢者から若者に向けても発生するものだと記事の中で触れたつもりです。

自分が相手にしてしまっていることもある、と知ることができれば、少しだけ寛容になれる感じがしませんか。 そして形はどうであれ「ギャップは (わずら) わしいと感じるものだ」と心構えをしておけば、 ムッとくる感情を抑えられそうな気がしませんか。

ギャップそのものを埋めることは難しいですし、私たちにできる努力って精々これくらいだと思います。 これ以上は堅苦しくなりますし、そんなことを一々考えて生きる人はいませんね。 だからもしも本当にウルサイなら、それを相手に伝えるべきだと私は思います。(関連 : 言葉と感情は腐る。”大事なら”、伝えるべきだ。)

ところが、私の方が年上だから(偉い)と我を通すような人もいますし、 もともと周囲のことにあまり関心がない、あるいは自分本位の人もいますね。 そういう人たちはおそらく年齢は関係なしにウルサイので、手に負えません。 出来るなら遠まわしな付き合い方をしたいものです。

よく「年上を敬え」と切り返されるシーンを見ますが、私は敬う相手は自分で選びますし、それに年齢は関係がありません。 「年を取ったらお前も分かる」と言われることもありますが、 指摘されたことが本当に問題であるかどうかを自分で考えるよりも前に、 年を言い訳にしなければいけないような自分にはなりたくないものですね。